作者:冴吹稔
現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
養父の仕事のその先へ進もうとする少女と、彼女を理解し援助の手を差し伸べる若き女領主の、奇妙な戦いが幕を開ける。
第二話「自由なる市」
「だめだだめだ、許可もなしにこんなモンを市(いち)に持ち込めると思ってんのか」
腰に棍棒をぶら下げたギルドの監督員が、小さな荷車に手をかけてすごむ。荷台の上にまばらに積まれた小ぶりな鶏卵がこぼれ落ち、緩んだ石畳の上に落ちて虚しくつぶれた。車をひいていた女が、あっ、と失望の声を上げた。
「ここはな、まともな商売人以外相手にしないんだよ。日が暮れないうちにさっさと帰りな」
とりつくろうような猫なで声に切り替えてはいるが、男の目は笑っていない。よそものは出て行けと言わんばかりだ。
(またか……)
インク職人のエッカルトは苦々しい思いでそれを見ていた。このふた月ほどというもの、商人ギルドの末端によくない空気が広がっている。先ごろ発布された新しい法令のせいだろうか。学問のない末端のギルド員には、自分たちの権限が法によって制限されたことも、その理由も、きちんと理解できてはいない。ただただ、より弱いものに鬱憤をぶつけるだけだ。
(あの卵、ぜひ買いたいものだが――)
恨めしい気持で荷車と女と監督員を順番に眺め回す。女は必死に目こぼしを訴え、監督員はますます居丈高になって、女と荷車を市の外へ押し出そうとしていた。
エッカルトは王都の閑静な一角に工房を構え、伝統的な没食子を使ったインクの製造を生業としている。今日はインクの酸度を和らげるための、卵の殻を求めて下町の市場へ出向いているのだった。
欲しいのは殻だから、卵の大きさそのものはどうでもよい。しっかりと滋養をとった鶏が産む、殻が分厚いものであることが肝心だ。だが先ほどからの様子では、荷車のそばに近づくのもためらわれた。
その時、エッカルトの視界がふと暗くかげった気がした。
しゅりん、と響く金属音――剣が抜かれた音だ、と気づいたときには、眼前に芝居の一幕めいた光景があった。いつの間に現れたのか、真新しい馬具をつけた黒い駿馬の上から、一振りの長剣がぴたりと監督員の鼻先に突きつけられていたのだ。
恐るべきことに、その剣尖はまったく揺らぎもせず、ぴたりと空中に静止していた。
「……私の目の届くところで、よくもこんな真似を」
この場に不似合いなよくとおる美声だった。馬上の男はマントのフードを後ろへ跳ね上げ、その弾みで剣先がわずかに相手の鼻に触れた。
「ひっ……!」
監督員の唇と鼻の間がわずかに切れ、血が滴る。
「だ、誰だッ……!」
「私を知らん、と? そうか、そうか……ならば聞け、目の前にいるのはお前たちから特権を取り上げた男だ」
監督員の顎がかくん、と緩んで落ちた。
「ギ、ギルベルト・フォン・グルデン……あんた、いえ、あなた様が……」
「政令の趣旨を理解できていなかったようだから、もう一度教えてやろう。この市場には今や、だれもが自由に商品を持ち寄り、売ることができる。価格と品質のつり合いだけがこの場を支配する正義となったのだ」
言葉と同時に、長剣は再び微塵のぶれもなく引き戻された。
「わかったならば立ち去れ。このような真似は二度と許さん」
ひい、と小さく悲鳴を上げて走り去る『監督員』と逆方向に、馬上の男――ギルベルトは蹄の音だけを軽やかに響かせて王宮のある方角へと去っていく。
凍り付いたように一部始終を見守っていたエッカルトは、ようやく荷車の方へと歩きだした。
* * * * * * *
メリッサが王都へ舞い戻ったのは、願い出た休暇の終わるわずか二日前だった。
下宿はろうそく屋の二階にある続き部屋で、彼女一人には少し広い。久方ぶりに戻ってみれば、中は初夏の陽気のせいでムッとするほど熱く、しまい込んだ古い衣類やほこりの匂いがこもってひどい状態になっていた。
「ああ、窓を! 窓を!!」
悲鳴を上げながら鎧戸を押し開く。吹き込んできた風で部屋の空気が入れ替わり、襟元ににじんだ汗が乾くと、メリッサはようやくひと心地が付いた。
余裕のできた頭で、これまでとこれからのことを考える。養父の喪はまだ明けないが、職場には早々に顔を出しておいた方がいいだろう。彼女が働いているのは王都の市政を預かる役所の庁舎の中、その奥まった場所にある記録文書を扱う一室である。人手はいつだって足りていない。
リンドブルムの女伯爵から持ち掛けられた雇用の話は魅力的だった。だが身の振り方は極力慎重に考えるべきところだし、今の仕事を整理して後任者に引き継ぐまでは手を抜けない。ともあれ、次の春まで時間はたっぷりある。
窓から見える市場の風景は、三か月前に王都を離れた時とは何かが違って見えた。
メリッサは改めて窓辺に身を乗り出し、まじまじと眼下の風景を見つめた。
(以前より人が多いわね……それに、もともとの市場の区画から、ずいぶん広がってるみたい)
――何か起きている。
気になるが、まずは庁舎に向かうことにした。脚絆や外套といった旅装を解き、仕事の時に着る暗いグレーの胴着に着替えて通りへ出た。
庁舎の前まで来ると、傍らから声をかける者があった。
「お久しぶりです、メリッサさん」
「ああ、エッカルトさん! ちょうどよかった、旅から戻ったばかりなんです。新品のインクがあればひと壜くださいな」
出入りのインク職人だ。彼の納める品は羊皮紙への定着がよく評判がいい。メリッサも愛用しているが、仕事机に置いてきたものは目ざとい同僚が、不在の間に手を付けてしまっていることだろう。
「ありがとうございます、文書室の方へお持ちしますので、そちらでお好きな壜を」
談笑しながら通路を奥へ歩いていく。その雑談の中で、エッカルトは気になることを口にした。数日前、市場でよい卵を手に入れたという、その顛末――
「市場から、商人ギルドの統制を外した……?」
寝耳に水だ。詳しく聞き出すと、どうやら彼女が王都を離れた直後ぐらいに、王に進言して政令を出させた人物がいるという。問題はその政令の中身だった。
(……これは『楽市楽座』だわ。お養父様がおっしゃってた……確かあの『知恵の書』にも記されていたはず)
ギルドによる特権的な市場独占をやめさせ、新規の商人を広く参入させて商業を振興させる政策だ。商人たちは競い合い、市場は賑やかになる。税収も増える。
いいことずくめのように見える――だが、これを取り入れるには、本来は時期を慎重にうかがう必要がある。
同業者ギルドには、駆け出しの商人職人を厳しい競争から保護し育成する、という側面もあるのだ。エッカルトの話にあった卵売りの女は、どう聞いても近隣からぽっと出てきた経験のないにわかの物売りだ。放っておけばあっという間に競争に負けて消えてしまうだろう。
「性急だし、おおざっぱすぎる……聞きかじりなんだわ、きっと」
「は?」
「いえ、なんでも」
メリッサは憂鬱な気持ちになった。ギルベルト・フォン・グルデンなるその男は、養父の知恵の断片をどこかで仕入れ、安易に国政に用いようとしているのではないか。
(このままでは、大変なことになるかも……)
近いうちに何とかして会ってみなくては。そう決心したとき、彼女は自分が何に足を突っ込もうとしているのか、まだ気づいていなかった。